三島邦弘『計画と無計画のあいだ』を読んだので、 印象に残った言葉を以下にまとめたい。
「一冊の力」を信じること ー これがミシマ社の原点回帰
「出版社をつくろう」 それは自分のなかでは典型といってもいいもので、目の前に光の道がパッと広がった。その瞬間、全身からパワーが溢れ出し、居ても立ってもいられなくなった。気づけば布団を飛び出していた。そして食卓の上にノートを開き、思いつくままアイディアを書き綴った。それは無我夢中の行動で、早朝まで止まることはなかった。 「原点回帰の出版社」 「編集と営業は二つで一つ。両輪が機能的に連動すること。スピードを出すにせよ、小回りをきかせるにせよ」
身をさらして発言したことが受け入れられないときはもう身を引くしかない。 なぜなら、身をさらして生きている人であれば、どんな組織にいようが、必ず、言葉をもって生きているものだから。言葉をもって生きているということは、その人自身、少なからず身をさらして生きてきた結果といえよう。そういう人は、身をさらして若者が発した言葉を無下にすることはない。
ぼくがグズだったのは、「通じない」とわかっているのに、それを他者のせいにしていたことだ。通じないとわかっているなら、自分が動けばいいだけのことだ。一度リスクをとったくらいで十分なリスクをとった気になっていた時点で、僕自身が批判している人たちと同じだった。つまり、保身の人間に他ならなかった。
「保身から発する言葉が、人を動かすことはけっしてない。」
「いい本をつくり、しっかりと読者に届けたい」 × 「ひとつひとつの活動が、未来の出版を築く一歩でありたい」 = 「未来に開かれた出版社を自分で作る」
目の前で光り輝く道。この道をただ歩んでいけばい。たしかにその道はまだ道なき道かもしれない。けれどもなんの躊躇も逡巡もいらない。ただ思いっきり、突っ走ればいい。
あのとき、知らず知らずにつくっていた自分を封じ込めている檻を、自身の手によって壊したのかもしれない。そして檻の外に出て初めて気づいたことがある。それは、「決め事」という檻は自分を守るためにあったわけではないということだ。守るどころか、実際には、その中でぼくは生きながらにして死んでしまうとっころだった。誰に課せられたわけでもなく、自らがつくった檻の中に自らを閉じ込めて。
もともと人生なんて初めての連続ではないのか。 知らず知らずのうちに「経験」でカバーする癖がつき、知らず知らずのうちに未経験への挑戦に対し、臆病になり。 強さは幻想でしかなく、弱さだけが本物だ。
ともあれ、世間で強さといわれるものを何ひとつ持たなかった当時のぼくは、せめて日々を笑顔で過ごそうと思った。
強さといわれるものをまったく手にしていないにもかかわらず、にこやかでいたいと思った。
まっとうなことをまっとうに通じる会社にしたい
際限がないからこそ、その仕事はやりがいがある。むしろ際限がある仕事は面白くない。
理由はいたってシンプル。だってそうじゃないと、会社は動かないのだ。
新しい血が入ってこない業界が廃れるのは世の必定。象牙の塔といわれた学会は形骸化しその威光を失墜させた。地域の電力を一社が担っていれば当然のごとく、おかしうなる。そういうものだ。
まさに悪循環。資源の無駄。 構造的問題。要は、出版社が「目先のこと」を優先させてきた結果にほかならない。
いま自分たちが精を出してやっている活動は、「かつて」よくできていたシステムに乗っかってのものであるということに対して、である。あくまでも、現在の乗っかっているシステムは、延命措置でしかない。そして、おそろしいことに、ぼくたちはそのシステムの上で、がんばればがんばるほど、「延命」に加担している。望むと望まざるとにかかわらず。それは、グローバル資本主義社会において、先進国に住む人達が「豊かさ」を享受するとき、知らず知らずのうちに途上国から「搾取」している、その公図と大差ないのかもしれない。
最近では、社会起業家といわれる人たちの一部には、そういう現代の革命家的側面があるのだろう。
出版というのは、テレビなどと比べると、きわめて小さなメディアではあるが、メディアであることに変わりはない。しかも、テレビなどと違い、唯一モノとして存在しているメディアだ。そして「モノ」である以上、一過性の要素は薄れ、時を超えることに、よりその本質があるといえる。
・未来の出版を築くやり方 納品即返品のようなことがないこと。 精算のタイミングが長すぎないこと
書店の側から見ると、現状の出版流通には三つの問題がある。 1入荷時の正味が高い 2希望した注文部数が入らない 3入荷のスピードが遅い
解決策 書店との直取引しかなかった。 1掛け率を柔軟に設定できる 2信頼関係で注文部数の満数を出荷 3取次を介在させずタイムラグを縮める 書店にとって自らの責任で仕入れるため、他社商品よりも粗利を稼げる
つまり、最初に非効率をとることで、結果としての効率が生まれる。
そして、人がいるということは、そこに必ず「手売り」の心意気が宿っているということでもある。けっして、効率的ではないかもしれない。けれど、顔の見える一人にしっかりと届ける。そうすることで、通常では味わえない「喜び」が生まれる。
仕事をサッカーに置き換えてみれば明らかだろう。いったんピッチに立てば、ポジションなんて関係ない。ミッドフィルダーが奪われたボールだからといって、フォワードやディフェンスの選手が黙ってみている、なんてことはあってはいけない。
元気を生むのは、「数字や結果にとらわれてないところ」だとぼくは思う。いってみれば、「遊び」の部分だ。
・野生の感覚を磨くために、工夫していること 1パソコンオフタイム 2席替え 3企画会議の書類は一部のみ
TwitterやFacebookが世界を変えるといわれるが、もし本当にそうだとしたら、きっと「個人」が希薄化しているのだと思う。 パソコンでちょろっと何かを書いて、ぽちっとクリックする行為と、危険を省みず身を晒して何かを動かそうとする行為とでは、重さが違う。
少なくとも、一対一でメント向き合った時自分の意見を述べ、他社の意見に耳を傾け、共感し合える関係を築けるかどうかは、生身の感覚次第であろう。それはパソコンでは決して身につかない感覚である。
本の本質は、古びないことにある。
著者と編集者の間で打ち合わされた企画は、出版社内の編集会議にかけられ、そこでゴーサインの出た企画が、営業部でチェックを受ける。そこでもOKの出た企画だけが、最終決済者の判断をあおぐ権利を得る。で、めでたく最終決済を通過したものが、本という形に向けて動き出す。長く遠い道のり。だが、これで終わりではない。まだ先はある。実際にできた原稿を本にする過程、印刷・製本した本を、取次と言われる流通会社と交渉し、全国の本屋さんへ配本するという流れ。本になるまでに様々な関門がある。
若い人が活気をもって活動できる社会のほうがいいに決まっている。挑戦できるのは若い人の特権。
どうして、一冊の本を届けるのに、熱量が落ちてしまうのか 効率主義の帰結、そして分断主義の帰結。
最優先すべきは、どれだけ熱くなれるか、どれだけ夢中になれるか、そういうことだろう。
ミシマ社の本をご覧いただければわかるのだが、一見すると、ノージャンル、見事なまでにバラバラである。
原点回帰の出版社としては、とにかく「面白い」から始めたいのだ。 その「面白い」を最大限に引き出しきった後に、その「最大限の面白い」にもっとも適した出口を見つけたい。
すくなくともぼくは、「本そのものを面白い」と思う人の絶対数増に挑むことから、新しい出版社を始めたいと思った。
読者ターゲット:老若男女みな それはいってみれば、人間を信じるということである。
ターゲットを設定しない。人間を信じる。 そこにあるのは、一冊入魂の精神だけだ。
一戦必勝。だからこそ、全力でプレーする。明日があることを信じて。 大量に売ることが最大の価値とされてきた。 会社を評する軸として、価値の創出と価値の多様性
あのとき、自分に嘘をついていたら、と思うとぞっとする。ずっと自分の中で湧き上がる感情に対して感覚を鈍らせたまま生きる人間になっていたかもしれない。
自由とは自分の感覚がよく利くという状態をさすのだ。