美容室でBrutusの本特集を見ていた。
そのときに「無駄」に関する記述を見つけて、「無駄」について改めて考えた。
そのことを今日は無駄に書きたい。
無駄。それは無駄であるがゆえに無駄と呼ばれる行動を指す。
しかし、無駄は決して無駄ではない。と、ちきぬたは思う。
無駄が無駄ではない理由を伝えるために、
無駄のメリットをまとめてみたい。
1.人生に余裕ができる
ちきぬたはこれを「効率主義の病」の緩和と呼んでいる。 「効率主義の病」とは、合理性の過剰な追求である。
効率というのは、定量的なものである。 そのため、効率を追求するとき、定量的なものばかりに目が奪われる。 それは、お金だとか、時間だとか、仕事量だとかそういうものだ。
経済的合理性を追求させられるサラリーマンや、受験戦争中の学生などが陥りがちなものである。 「これだけの時間で、これだけのお金を稼いだ」 「今日だけで、参考書が100ページ進んだ」 などは効率主義の観点である。
しかし、現実は定量的なものばかりではない。 精神的な豊かさといったら抽象的すぎるが、ある種の安らぎ、幸福感、スローな時間感覚が無駄の中にはある。
なぜなら、無駄は、定量的視点である効率主義の観点から見て無駄ということであるからだ。
それはつまり、無駄は「定性的な価値」への視点を提供してくれるということである。
合理性を追求する大概の場合、定量的な価値と定性的な価値はトレードオフな場合が多い。 そんなときに定性的価値に気づくためには、無駄こそが重要なのだ。
これは完璧主義をやめることにもつながる。
効率を上げるためには、定量的なものに集中することが重要だ。 しかし、「何のために」効率を上げるのか? 効率主義的な人にはこのことをよく考えてみて欲しい。
多くの人が、人生をより豊かに生きるためではないのか? そのために、定性的な豊かさを犠牲にしても良いのか?
無駄から生まれたこのような思考が、真の目的地への修正を行ってくれ、結果的に「効率良く」人生を楽しむことにつながるのではないだろうか。
なにより、余裕のある人生になることは確実である。
2.セレンディピティを発揮し、イノベーションを誘発できる
セレンディピティ(英: serendipity)は、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見する「能力」を指す。平たく言えば、ふとした偶然をきっかけにひらめきを得、幸運をつかみ取る能力のことである。(Wikipediaより)
無駄があることで、先ほどの定性的価値のような「別の価値」に気づき、それを意識することにより今までにない新しいアイデアが生まれる可能性がある。
それは、社会的変革、人生の変革としての不連続な飛躍(イノベーション)を起こすことにつながる。
あの世紀の大発見は、無駄の中から生まれた!というのはよくある話しだろう。
3.頭に緩急をつけられる
これは、仕事を行う上で重要な手法である。 仕事に集中するときと、無駄な時間を過ごすとき、頭の回転スピードが異なることはお分かりだろう。 その「頭の回転スピード」の緩急を意識することによって、集中を自在にコントロールできるようになる。 また、仕事に対して、効率よく向き合うことができるようになる。
野球で考えてみよう。 常に豪速球を投げるピッチャーと少し早い球とスローボールを駆使するピッチャー。 どちらが打ちにくい(優秀)だろうか? 思考実験としてコントロールを度外視した場合、常に豪速球のピッチャーはタイミングさえ合えばだれにでも打てる。 しかし、2種類のスピードをもつピッチャーを打つには、どちらがくるか予想し、タイミングを合わせなければならない。
常に全力で仕事をする人は、一定の成果しかあげられないことが多い。それは、効率主義に陥り、イノベーションの機会を失い、成長が鈍化していく。 一方、適度に手を抜きながら仕事をする人は、適度にイノベーションを起こし、不連続な成長をしていく。 大企業等でキャリアの道筋が確定していれば前者のほうが成果をあげていくが、不確実な社会の中で生きていく場合は、後者のほうが成果をあげやすいだろう。
まとめ
上記のように無駄は決して無駄ではない。
なぜなら、無駄は、時間意識を薄め、定量化できない価値への「気づき」を与えてくれるからだ。
無駄のない人生は、どれだけ息苦しいだろう。 想像してみてほしい。無駄のない人生を生きている自分と、その未来を。
ほらあなより愛をこめて たぬきち